東京地方裁判所 平成3年(ヨ)2248号 決定 1991年11月14日
債権者
力竹俊道
右訴訟代理人弁護士
山田有宏
同
丸山俊子
同
松本修
債務者
株式会社第一興商販売
右代表者代表取締役
西島国治
右訴訟代理人弁護士
久保利英明
主文
一 債務者は、債権者に対し、平成三年一一月二五日から平成四年一〇月まで、毎月二五日限り、月額金八〇万円を仮に支払え。
二 債権者のその余の申請を却下する。
三 申請費用は債務者の負担とする。
理由
第一申請の趣旨
一 債権者が債務者に対し労働契約上の権利を有する地位にあることを仮に定める。
二 債務者は、債権者に対し、平成三年六月から本案判決確定まで、毎月二五日限り、月額金一二三万円を仮に支払え。
第二事案の概要
一 次の事実は当事者間に争いがない。
1 債務者は、肩書地に本社を有し、音響機器の販売、小型ジュークボックス及びその付属品の賃貸等を目的とする資本金一〇〇〇万円の株式会社である。
債権者は、昭和三七年三月長崎県北松南高等学校商業科を卒業し、同年四月日本電子工学院放送技術部に入学し、昭和三九年三月同校を卒業し、その後サンリオ音響株式会社に勤務していたが、債務者取締役広瀬米吉の仲介で昭和六三年九月から債務者に入社して勤務し、営業本部長として月額基本給一二三万円の支給(毎月前月二一日から当月二〇日までの一か月に対し、当月二五日払)を平成三年五月分まで受けてきた。
2 債務者は、音響機器の販売及びリース等を目的とする第一興商株式会社(以下、「第一興商」という。)の子会社であるところ、同じく第一興商の子会社としてミュージックテープの製造、販売等を目的とする株式会社ファスターコーポレーション(以下「ファスター」という。)がある。
3 債務者代表者は、債権者に対し、平成三年四月五日(以下、年度は省略する。とくに記載しない限り同年中のことである。)、債務者からファスターへの転籍を打診した。
4 債権者は、四月八日、債務者代表者とともにファスターに行き、ファスターの代表者工藤泰徳と第一興商の専務取締役伏見昌広、前記広瀬取締役らと会い、右伏見から、「ファスターは第一興商販売より給料が安いよ。そのことについて工藤、西島社長とよく話し合ってくれ。」と言われたが、その後、工藤社長から給料については何の説明もなされなかった。
5 債権者は、四月一〇日、親しくしていた前記広瀬取締役と宇都宮への出張に同行した際、転勤になるとなぜ給料が下がるのか尋ねたところ、同取締役は「西島社長から聞いていないのか。」と言い、翌日、債務者会社に来て、債務者代表者に対し、「力さん(債権者)に給料のことをはっきり言わなければだめだよ。」と話し、同代表者は、「伏見専務が話すと思ったし、言いにくかったので言わなかった。」と弁解した。その後、右三名は、喫茶店ルノアールで話をした。
6 四月一六日、五月七日、五月八日、五月九日に債権者とファスターの工藤社長とが会い、また、五月一〇日、債権者と第一興商の伏見専務とが会って話した。
7 債務者は、五月二七日付けで、債権者に対し、五月八日限りで債権者は退職扱いになっている旨通知(以下、「本件通知」という。)した。
8 なお、債権者に対するファスターへの転籍の話と同時に債権者の部下であった三名の債務者従業員のファスターへの転籍の話があり、これら三名については、五月七日に転籍後の給料、身分が確定している。
二 債権者は、ファスターへの転籍を承諾したことはなく、債務者からの退職の合意も成立しておらず、本件通知によって解雇されたと主張し、仮に退職の合意があったとされるならば、給料が著しく下がり、取締役になれないという点に要素の錯誤があったから合意は無効であると主張し、これに対し、債務者は、債権者を解雇したことはなく、債権者は債務者からファスターへの転籍を承諾したことにより債務者を任意に退職したものであると主張する。
当事者双方の主張する事実経過は次のとおりである。
1(債権者の主張)
(一) 四月五日、西島社長からファスターへの勤務替えの打診を受けた際の話の内容は、第一興商の伏見専務からかかってきた電話の内容だとして「ファスターが九月から卸部門と販売部門を分離し、販売部門を城南第一興商株式会社にして、債権者をその取締役にするから、それまでファスターに勤務して頑張ってもらいたいと言ってきている。専務の話は、私が考えても悪い話ではないので承諾してもらいたい。」というものであった。債権者は、取締役になれる、昇進できると思って喜び、一応この申し出に対して内諾したものである。
(二) 四月八日にファスターの給料が安いという話を伏見専務から聞いたので、四月一〇日の出張同行の際に、広瀬取締役に「転勤後の給料はいくらになるのですか。」と尋ねると、同取締役からは、「俺がちょっと聞いたところでは八〇万円ということだ。」と言われた。従来の給料との差が大きく、驚いた債権者は、「八〇万円では生活ができません。何とかしてください。」と頼んだところ、翌日、広瀬取締役が債務者会社に来て債務者代表者に話をし、同社長がファスターの工藤社長に連絡をとったということで、喫茶店ルノアールでは、債務者代表者の同席しているところで、広瀬取締役から、「西島さんが話すことだが、給料は昨日俺が言った八〇万円に一〇万円プラスして九〇万円ということで話がついた。九〇万円の内訳は給料が六〇万円で、裏が三〇万円ということだ。」と言われた。
(三) 四月一六日と五月七日には、ファスターの工藤社長に転勤後の待遇についてはっきりしてもらいたい旨話したが、確答を得られなかった。
(四) 五月八日には、工藤社長から、「力さん(債権者)は、こちらで特販部長をやってもらうが、給料は一か月六〇万円と裏金三〇万円の固定給九〇万円という支給方法のほかに、給料六〇万円と力さんが連れてくる三人の売り上げの三パーセントの歩合給をつけるという方法もあるが、どちらにするか。」と言われたので、考えて返事をすると答えた。
(五) 五月九日には、工藤社長に対して、「昨日の話はよく考えましたが、セールスからピンハネするのは、私の性格上できませんから、固定給九〇万円でお願いします。」旨話したところ、工藤社長は、「昨日はどっちでもいいと言ったが、親会社には歩合給でやると報告したので、固定給だけと言われても困る。」と言われた。債権者が「どうしても固定給九〇万円にしてください。」と言ったところ、工藤社長は、「それでは明日また話し合おう。」と言った。
(六) 五月一〇日午後、工藤社長に会おうとして待たされるうち、前記伏見専務に呼ばれて、「もうファスターでは君を要らないと言っている。」と言われ、債権者が「ファスターの話は白紙に戻してください。」と言ったところ、同専務から「君はもう第一興商販売には戻れない。」と言われてしまった。同日、債務者代表者とは会っていない。その後、本件通知を受けるに至ったものである。
2 (債務者の主張)
(一) 四月五日、債務者代表者は、債権者に対してファスターへの転籍の打診をした際、取締役就任などと申し向けたことはない。
(二) 四月一一日、喫茶店ルノアールでは、債務者代表者が広瀬取締役の同席しているところで、「基本給六〇万円、各諸手当を含めて月給を九〇万円にすることを検討中である。」と話しただけである。この話し合いで、債務者代表者は債権者のファスターへの転籍に異存がない旨の意思を確認し、ここに、ファスター転籍後の給与、職位につき未定のまま、これらについての合意がファスターとの間で成立した時点で、債権者が債務者を退職する旨の条件付退職合意が成立した。
(三) 五月八日には、工藤社長から、「職位は特販部長とする、給料については、四月一一日に基本給六〇万円に諸手当三〇万円の計九〇万円を検討していると話したが、それはできないことになった。部長職でも五四万円が最高なので、それに歩合三パーセントをつけることでどうか。」と話した。その際、ファスターの給与規定に基づいて年齢、職能から基本給は二七万四四四〇円であり、これに各種手当を加えても五〇万四四四〇円にすぎないことを便箋に記載して示したところ、債権者は、自らの筆記用具を取り出して職能の欄の右側と職務手当の右側に、それぞれ「+五〇〇〇〇」と書き加え、合計欄の「五〇九四四〇」の右側に「六〇九四四〇」と記載して、自己の希望額を工藤社長に示して、基本給の引き上げを強く主張したので、工藤社長は、やむなく、債権者の言い分をほとんど受け入れて結局基本給六〇万円に歩合をつけることになり、ここに、債権者の転籍についての合意が成立し、その旨ファスターから債務者に連絡がなされたので、債務者は、前記条件が成就したものとして債権者との労働関係の終了手続をとった。
(四) 債権者の退職の合意が成立した後である五月九日になって、債権者から、改めて、給与を固定給九〇万円にしてほしい旨の要求がなされた。
(五) 五月一〇日、再度、給与面の話し合いがなされたが、債権者は、第一興商グループからの離脱を仄めかして、固定給九〇万円を要求し、ファスターサイドでこれを拒絶し、ファスターの工藤社長も労働契約の解除の意思表示をした。
第三当裁判所の判断
一 (証拠略)によると、一応、債権者主張の事実経過が認められ、これを覆すに足りる疎明はない。
債務者は、四月一一日の喫茶店ルノアールでの話し合いで、債務者代表者において、債権者のファスターへの転籍に異存がない旨の意思を確認したとし、(証拠略)にはこれに副う記載もあり、ファスターへの転籍の打診に対して、債権者が内諾していたことは債権者の自認するところでもある。債務者は、このような転籍についての債権者の態度を理由として、債権者・ファスター間で待遇についての合意が成立した時点で債権者が債務者を退職する旨の条件付退職の合意が成立したとみるべきであると主張する。しかしながら、右の時点では、転籍後のファスターにおける債権者の待遇に関して未だファスター側との話し合いも行われておらず、転籍後の待遇、転籍の時期ひいては債務者からの退職の時期等について、具体的なことがほとんど何も決まっていなかったことは明らかである。このように退職に関する点を含めて更に詰めなければならない諸要素を残しながら、単に債務者から退職することだけについて、転籍という他企業との契約の成否という将来成就するかどうか未定の条件にかからせて確定的に合意するということは、当該企業間の関連性を考慮しても、債権者自身が債務者での勤務の継続をしないという積極的意思を固めていたなどの特段の事情のない限り、通常は考えられないことであり、転籍に対する漠然とした内諾をもって当該従業員の退職という法的効果を生ずる条件付合意とは容易に認めがたいものというほかはなく、本件においては、債権者自らが積極的に債務者からの退職を希望していたというような特段の事情を窺わせる疎明はない。しかも、債務者代表者の陳述書である(証拠略)には、四月一一日の喫茶店ルノアールでは転籍後の賃金額について月給八〇万円程度と説明したと記載されているところ、債権者が月々四二万余円もの自宅の住宅ローンの返済を要していたことは(証拠略)によって明らかであり、前記のとおり、債権者の債務者における賃金額が月額一二三万円であったのに対しファスターの賃金額は債務者のそれより低いと予め言われていたのであるから、債権者がこの点に重大な関心をもっていたのは当然のことと考えられることなどからすると、債権者がファスターでの待遇も転籍の時期等も確定しないうちに、債務者を退職することだけを条件付にせよ予め確定的に了解したものとは到底解しがたい。
ところで、前記のような企業間の関係と転籍打診の経緯に照らすと、債権者の債務者からの退職の問題は、ファスターへの転籍に伴うものであって、その実現と一体的な関係をなすものと解されるところ、四月五日の打診の際にファスターへの転籍を内諾したことは債権者自ら認めており(もっとも、その動機は、九月以降新設予定の城南第一興商株式会社の取締役にしてもらえるという話だったため昇進と考えて了解したとしている。)、五月一〇日にファスターへの転籍を含めて継続勤務を拒否されるに至るまでの間、ファスターに転籍できることを前提とする限りで債務者からの退職を認めていたと解されるので、仮に債権者のファスターへの転籍が確定的に一旦実現したとすると、経過全体として黙示の退職合意が成立したとみる余地がないかどうかが一応問題となる。しかし、その後の経過をみても、債権者のファスターへの転籍が確定的に実現したものとみることはできない。すなわち、まず、債権者とファスターとの間で賃金額について確定的な合意が成立したことを一応認めるに十分な疎明はない。債務者は、債権者がファスターへの転籍後の待遇については、五月八日に、工藤社長から、基本給六〇万円に歩合三パーセントをつけることを提案されて受諾した、その際の状況は、工藤社長がファスターの給与規定に基づいて年齢、職能から基本給は二七万四四四〇円であり、これに各種手当を加えても五〇万四四四〇円にすぎないことを便箋に記載して示したところ、債権者が自らの筆記用具を取り出して職能の欄の右側と職務手当の右側にそれぞれ「+五〇〇〇〇」を書き加え、合計欄の「五〇九四四〇」の右側に「六〇九四四〇」と記載して、自己の希望額を工藤社長に示して基本給の引き上げを強く主張したので、工藤社長は、やむなく、債権者の言い分をほとんど受け入れて結局基本給六〇万円に歩合をつけることになり、ここに、債権者の転籍についての合意が成立したと主張する。なるほど、(証拠略)のメモには債務者主張の記載があり、これが債務者主張のとおりに債権者自らの記載によるものであるとすれば、債権者がファスターの工藤社長の提案を受け入れたと解すべき重要な徴憑であるということができるが、工藤泰徳の陳述書(<証拠略>)によると、右の各「+五〇〇〇〇」という付記は、工藤において記載したものだというのであって、(証拠略)は決定的な証拠とはいえない。また、(証拠略)(いずれも同人の陳述書)には債務者の主張に副う記載があるが、これらは、(証拠略)に照らしてにわかに採用しがたい。また、債務者の主張するところによっても、ファスターへの転籍の合意が一旦成立したという翌日及び翌々日に、債権者から、給与を固定給九〇万円にしてほしい旨の要求がなされたためファスターがこれを拒絶して、労働契約を解除したというのが債務者の主張であるが、右主張のような解雇が有効たり得るかどうかはかなり問題であって、あるいは、ファスターとしては、債権者を採用しなかったというだけのこととしているのかもしれないが、いずれにせよ、実際に稼働する日程も決まらないうちに雇用契約が解消されてしまったというのであり、債権者の就労に至っていないことは明白な事実であり、債権者の同社への転籍が確定的に実現したとは到底みられない。したがって、債務者からの退職の合意が黙示的に成立したとみる余地もないことは明らかである。
なお、債権者は本件通知によって解雇されたと主張するが、債務者は解雇はしていないと主張しており、また、何らかの解雇事由を一応認めるに足りる疎明もないから、債権者の債務者における従業員たる地位はそのまま存続しているものというべきである。
三 仮処分の必要性について検討するに、本件疎明資料によると、債権者は肩書地において、自宅の住宅ローン四二万余円を負担しながら、妻と一五歳(高等学校一年生)、一二歳(中学校一年生)の二児を扶養し、債務者からの賃金のみによって生計を立てていることが一応認められるので、債権者の生活を維持するための緊急の必要性を主文の限度で認めることとし、賃金についてのその余の申請及び債務者による任意の履行を期待するにすぎない地位保全の仮処分については保全の必要性を認めるに足りる疎明がないので、これを却下することとする。
(裁判官 松本光一郎)